宮崎県の山深く、人口はおよそ2,000人の東臼杵郡椎葉村。日本三大秘境のひとつに数えられ、世界農業遺産にも認定されたこの地は、1908(明治41)年、のちに日本民俗学の父と呼ばれる柳田國男が一週間にわたって滞在し、狩猟民俗を記録した「はじまりの地」でもある。柳田がこの村で見聞きした風習をまとめた『後狩詞記(のちのかりことばのき)』(筑摩書房刊)は、日本民俗学最初の出版物となった。
それから一世紀余り、令和の今。椎葉村で生まれ育ち、鹿児島大学農学部森林科学コースで学んでいる甲斐崚太さんは、故郷の集落を歩き、「山の神」信仰の現在を聞き取り、記録を始めている。先行研究が林業従事者の儀礼に着目してきたのに対し、甲斐さんが見つめるのは、林業に従事しない住民を含む集落全体の《祈りの風景》だ。
高齢化が進み担い手が去っていくなか、語り継がれてきた作法や言葉が途絶えようとしている。「自分にしかできない研究」と自負を語る青年が、現代の柳田國男となって故郷の記憶を未来に残そうとする足跡を追う。

    甲斐 崚太

    かい りょうた○2002年10月生まれ。宮崎県東臼杵郡椎葉村出身。
    林政学研究室に所属し、椎葉村全10地区の集落を対象に「山の神」信仰の聞き取り調査を進める。
    幼少期からスポーツに打ち込み、高校まで野球に情熱を注いだ。コロナ禍で甲子園大会が中止となったことを機に進路を見つめ直し、地元の自然と文化を体系的に学ぶ道へ。


    「当たり前」だった祈りの日常が、研究対象へ


    甲斐さんの実家がある松尾地区・小河内集落は、かつて30~40軒の世帯が暮らしていた。現在では10軒ほどになったものの、集落の高台には市山神社が鎮座し、「市山様」と呼ばれる山の神が祀られている。建設業に従事していた祖父が社を建て直したことを機に、甲斐家が祭礼の中心を担うようになった。毎年11月の中頃に、神主を招き供物を捧げ、宴を開く。幼い頃の甲斐さんにとって、それは珍しいことでもなんでもない、「当たり前の風景」だった。

    転機は、コロナ禍の只中にあった高校時代に訪れた。プロ野球選手を夢見て甲子園を目指していた野球少年は、自粛期間中に地元に留まる中、故郷の自然への関心が生まれた。「山の機能を川上から川下まで学びたい」と考え、鹿児島大学農学部に進学。そこで初めて、自分が育った環境が「特別」であることに気づいたのだ。「他学科の友人に《山の神》と言ってもまったく伝わらなくて、とても驚きました」。

    研究テーマ選択の決め手になったのは、森林組合など「仕事」に関連する行事を調査していた先輩の存在。「先輩の調査が仕事に関連するなら、逆に集落の暮らしで営まれる祭礼はどうかと考えたんです」。自身の「当たり前の日常」が学術的な空白であることに甲斐さんは気づいた。

    そして椎葉村の10地区に点在する集落を訪ね、最も詳しい人物を紹介してもらい、聞き取りを行っていった。方言を理解し自在に操れること、地元の人間として信頼されること。これらは外部の研究者にはない圧倒的な強みであった。地区によっては「外国」と表現されるほど方言が異なるこの村で、言葉の壁なく耳を傾けられるのは、椎葉育ちの甲斐さんだからこそだ。
    加えて、甲斐さんの人柄もまた、調査を支える大きな要素となっている。各地の集落では親しみをもって迎え入れられ、手作りの料理が振る舞われることもあるという。ある集落では「昼間に行ったんですけど、お酒を出してくれて、そのまま宴会になったこともあります」と笑う。そうした関係性のなかで交わされる言葉だからこそ、表層的な聞き取りにとどまらない、生活の実感に根ざした語りが引き出されていく。

    調査は長期休暇を活用し、今も一集落ずつ進められている最中にある。調査日や継続の有無を表形式で管理し、自作の地図で空間的な配置と優先順を決めていく。
    最大の障壁は時間。高齢のインフォーマントが不在になれば、その集落の記憶は永遠に失われてしまう。

    柳田國男と椎葉村

    柳田國男(1875~1962年)は、日本民俗学の創始者。兵庫県に生まれ、東京帝国大学を卒業後、農商務省の官僚として全国を視察するなかで、各地に息づく庶民の暮らしや信仰に関心を深めた。1908(明治41)年、九州視察の途中で椎葉村を訪れ、当時の中瀬淳村長とともに村内を巡り、猪鹿の狩猟習俗を調査。滞在は一週間に及んだ。のちに中瀬村長が復元・送付した「狩の儀式」を記した巻物をもとに、翌年『後狩詞記』を著した。これが日本民俗学最初の出版物となり、椎葉村は「日本民俗学発祥の地」と呼ばれるようになった。

    日本の秘境・椎葉村

    椎葉村は九州山地の奥深く、宮崎県の北西部に位置する。平家落人伝説が伝わり、那須大八郎と鶴富姫の悲恋の物語が今も語り継がれている。村域は広大で10の地区に分かれ、それぞれに複数の集落が山間に点在する。焼畑農業をはじめとする伝統的な山の暮らしが評価され、2015年には世界農業遺産に認定された。神楽や山の神信仰など、集落ごとに多彩な民俗文化が受け継がれてきたが、人口減少と高齢化の波は深刻で、消滅の危機に瀕している集落も少なくない。


    集落ごとに異なる神の顔  
    供物や禁忌、祈りの多様性

    調査が進むにつれ、見えてきたのは驚くほどの多様性だった。「同じ椎葉村のなかでも、山の神の祀り方は集落ごとにまるで違うんです」。例えば甲斐さんの地元・小河内集落では、山の神は獣を嫌う。祭りの前日から肉を口にしてはならず、当日の供物は海の魚。「海の魚をわざわざ持ち込むんです。炊きたてのご飯とお魚などを神様にお供えし、その後自分たちがいただく。これが祭りの最高の楽しみだったんですよ」。一方、別の集落ではイノシシの心臓など、獣の臓器を串に刺し、山の神に供える。獣を嫌う神がいれば、獣を受け入れる神もいる。

    そして「山に女性を入れてはならない」「山に入る前日に肉を食べてはいけない」といった禁忌も、集落によって異なっていた。「山の神は女性神であることが多く、美しいものに嫉妬すると言われています」。そのため女性禁制とされ、見た目でオコゼを好むという信仰が生まれたのだという。

    椎葉村に伝わるオコゼ信仰(※)は独特で、猟師が獲物を願うとき、オコゼ(「お小銭様」と呼ばれている)を幾重にも紙で包み、「一枚ずつ破って光を見せるから獲物をください」と祈る。ところが、実際には光を見せないよう紙を重ね直す。光を見せてしまえば猟が終わってしまうから、約束を引き延ばし続けるというのだ。そうしたずる賢さに似た知恵もまた、暮らしと信仰がつながっていることの証だろう。

    甲斐さんはこうした差異を丁寧に記録しながら、共通する構造も探っている。離れた集落同士で肉食禁忌や服忌の規定が一致する場合、地理的な近さでは説明がつかない。同一の神主が関与していた可能性など、制度的な連関を仮説として組み立てる。祀られる神が向かい合う配置に、空間的なコスモロジーの示唆を読み取ることもある。データの蓄積から慎重に考察を重ねる姿勢は、一つの集落に根ざす当事者であると同時に、学術的な客観性を失わない研究者としての矜持なのだ。

    オコゼ信仰

    山の神は、地域によっては女神として語られ、嫉妬深い性格をもつ存在とされてきた。とりわけ西日本では、自身よりも醜いとされる魚――オコゼを供えると機嫌を機嫌を良くして願いを聞き届けてくれると信じられている。そのため、狩猟や山仕事に入る前、あるいは豊作を願う場面で、オコゼを供える風習が各地に見られる。山の恵みを左右する存在への畏れと祈りが形になった、民間信仰の一つである。

    今回の取材撮影にあたり、協力してくださった黒木さん


    ■ 椎葉村 山の神信仰 調査状況 2026年3月末時点 ■

    椎葉村全10地区に点在する集落を対象に、甲斐さんは「山の神」信仰の聞き取り調査を進めている。調査は長期休暇を利用してひとつひとつの集落を訪問し、直接話を聞くという方法で行われており、現在は約半数の地区で聞き取りが進んでいる段階にある。
    (数字は地区内の集落の数。 オレンジ色:調査中、 緑色:完了、 グレー:未調査)


    2026年3月末時点の調査状況

    地区名集落数調査状況
    松尾地区16調査中(ほぼ完了)
    尾向地区4調査完了
    上椎葉地区9調査中(ほぼ完了)
    鹿野遊地区7調査中(ほぼ完了)
    仲塔地区5調査中(ほぼ完了)
    尾八重地区4未調査
    不土野地区3未調査
    小崎地区8未調査
    大河内地区5未調査
    栂尾地区4未調査



    今回の調査で甲斐さんが訪れたのは、上椎葉地区の山奥にある佐礼(ざれい)集落の黒木さん宅。現在の住戸はわずか二軒で、10年後、20年後には人の暮らす場所ではなくなる可能性もあるが、この集落には今も山の神の文化が色濃く息づく。木に祀られる山の神のほか、稲荷神や十体の石像など、小さな集落に多くの神々が共存している。

    ここで祀られているのは、山の神「山津見(やまつみ/おおやまつみ)」と、猟犬の神「コウザキさま」。両者は一体の存在として捉えられ、供物も分けられることはない。猟に欠かせない犬は、死後コウザキさまとして祀られるという。

    供えられるのは、猪の心臓を七つに切り分けたもの。これは他の集落にも見られる作法だが、この集落ではさらに火で焼き、味付けを施してから供える点に特徴がある。「人が食べて美味しいものを、神様にもお供えする」。そうした感覚のもと、祈りは特別な儀礼としてではなく、日々の暮らしの延長として営まれている。


    「自分にしかできない研究」を貫く意思

       研究への思いを聞かせてください。

    甲斐 崚太(以下 甲斐)  かなり方言が強い地域なので、聞き取りに苦労しないのは大きかったです。普段から育った場所ですし、相手が何を言いたいのかが自然にわかる。知り合いのつながりもあるので、信頼関係もすぐにできますし、調査の後も仲良くさせてもらっています。他の大学から研究に来る学生もいますが、やっぱり地元出身の自分の方が受け入れてもらいやすいのではと感じています。
    高齢の方が多く、昔の風習が忘れられていく中で、自分がやらなければ誰もやらないかもしれない。その使命感が、足を動かし続ける原動力になっています。

       調査の中で特に印象に残っていることはどんなことですか?

    甲斐  山の神様を身近な存在として、集落全体が暮らしのなかに位置づけている場所と、そうでない場所で、明らかに差があるということです。「決まった日に供物をして、何かあったら神様に報告する」そうした慣習が根づいているところは、神社も大切にされていますし、文化が続いています。でも、慣習が薄れた集落では神社が荒れていたり、行事が途絶えていたりしています。
    それからもうひとつ印象的なのは、狩猟で連れていく犬への感謝です。亡くなった犬も祀られていて、ありがとうという気持ちを向けている。自分たちの利益のためだけではなく、動物にも敬意を払っているんです。これは調べてみなければわからないことでした。

       描いているご自身の将来像は?

    甲斐  人が好きなので、人と関わって森や木の価値を提案できるような仕事に就きたいと考えています。場所は九州に限らず、広く見ています。でも、最終的には椎葉に帰ります。外の世界でいろいろ学んで、働いて、それから戻りたい。椎葉で家を建てて、村に貢献して、村長になる。それが私の将来像です。研究で知見が広がったからこそ、神様のいるこの土地を、自分が守っていきたいと思っています。

       鹿児島大学・森林科学コースの特徴と、林政学における地域文化研究の意義とは。

    奥山洋一郎 先生(以下 奥山先生)  森林科学コースには、林政学や森林計画学、育林学、森林保護学、砂防学、木質資源利用学、森林利用学、森林教育学の研究分野があります。林政学では、森林と社会の結びつきを多角的に研究しています。政治・経済的な関係だけでなく、防災や水源涵養、歴史や文化や信仰を通じた結びつきも大切にしています。日本人のほとんどが「森林は大事だ」と感じているのに、その感覚がどこから来るのかはあまり解き明かされていない。山の神様のような信仰が具体的に残っている場所には、いわば「日本の原型」が保存されているのではないかと捉えています。甲斐さんの研究は、その多様性をミクロな視点で丁寧に拾い上げていくものとして非常にユニークで意義のあるものです。

       学生への期待についてお聞かせください。

    奥山先生  現場でさまざまな人の話を聞いた経験を将来の仕事に生かしてほしいと思っています。行政や木材に関わる仕事をするにしても、森林や林業をただの数字として見るのではなく、その丸太を切った人がいて、山に木を植えた人がいる。そういう背景にある思いを感じ取れる人間であってほしい。甲斐さんは現地に足を運び、地元の人々と良好な関係を築きながら話を聞いている。それが彼の研究の最大の強みだと感じています。


    森と人をつなぐ学びの現場

    甲斐さんが学ぶ鹿児島大学の森林科学コースでは、森林をめぐる営みを多角的に捉える教育が行われている。林政学や森林計画学、育林学、森林保護学、砂防学、木質資源利用学、森林教育学、森林利用学といった領域が連なり、自然環境から社会、産業までを一体として理解していくための学びだ。

    なかでも林政学研究室は、森林と人との関係性を、経済や制度だけでなく、文化や信仰といった側面からも読み解こうとする点に特徴がある。指導教員の奥山洋一郎先生は、「森林との関わりは、木材としての利用だけでなく、防災や水源、さらには文化や信仰など、多様なかたちで存在している」と話す。

    特徴的なのは、現場に身を置くことを重視する姿勢だ。林業の現場や地域社会に足を運び、人の話を聞く。その積み重ねによって、数値や制度だけでは見えてこない関係性を掬い上げていく。

    奥山先生は言う。「多くの人が感じる“森林は大切だ”とという気持ちは、古くからの日本人の精神性にも関係するのかもしれません。山の神のような信仰が残っている場所には、日本の原型のようなものが見えてくるのではないかと考えています」。

    甲斐さんの研究は、そうした問いに対して、集落というミクロな単位から応答しようとする試みだ。一つひとつの土地に残る祈りのかたちを記録していくことで、見えなかった関係が、少しずつ輪郭を持ちはじめる。


    この研究が照らす未来
    「失われる前に、残す」

    甲斐さんの研究は、学術的な営みであると同時に、「時間との闘い」でもある。これまで伝承は口頭中心で伝えられてきた。文化として残されている神楽とは異なり、山の神の祭礼や禁忌の多くは、文献に記録されていない。担い手の高齢者が一人亡くなれば、その知識は永遠に消えてしまう。今も、60歳と80歳の語り手では、同じ集落でも内容が異なることがあるというのだ。聞き取り調査とは、その揺らぎを含めて記録に刻む作業でもある。

    指導教員の奥山先生は、甲斐さんの研究を「日本の文化の多様性を、山の神という接点から切り取って見つけていく営み」と位置づけた。椎葉村という小さな村にさえ、集落ごとに大きな違いがある。画一的な思い込みの枠を外し、丁寧にミクロの差異を拾い上げる——それは、日本人が無意識に抱く「森林は大事だ」という感覚の根を、具体的な実践に探る試みでもあるのではないか。

    甲斐さんは言う。「感謝の対象をしっかり持っているところが、ちゃんと続いている」と。山の神に供物を捧げ、一年の報告をし、無病息災を祈る。その慣習が途絶えた集落では、神社は荒れ、文化の灯火は静かに消えていく。逆に言えば、感謝の循環が生きている限り、集落の文化もまた生き続ける。

    柳田國男が椎葉村を訪れてから一世紀余りが経過した。『後狩詞記』に記録された風習の一部は、微かに息づいている。「絶やさない」令和の今日まで続いてきた人々の生をつなぐために、甲斐さんの歩みが新たに刻まれていく。そしてその先に、描く未来。それは研究者というよりも、この村に生まれ育った人間の、山の神との約束であるに違いない。