剣道や合気道など、日本の古武道の中でも剣術武道には決められた「型」がある。日本古武道は戦術よりも心身鍛錬や精神修養を重視しているため木刀を使用した「形稽古」は切り離せない。また、土産物として修学旅行生や外国人旅行者に人気が高い。しかし、この木刀が今、日本文化から消失の危機に陥っている。
筑波大学 生命環境系 森林資源社会学研究室(指導:興梠 克久准教授・農学博士)の大学院に所属している十川陽香さん。大学入学時より始めた古武道にハマったのが木刀との出会いだった。「木刀価格」の変動に興味を惹かれた十川さんにとって、林業経営や林業事業・管理などの林政学をテーマとする森林資源社会学研究室はうってつけ。木刀産地の宮崎県都城市と大学を行き来しながら、フィールドワークを中心に研究を進めている。
驚くことに、かつての隆盛期から急速に衰退しているとはいえ日本古来より続いてきた独自文化でありながら、木製武具の研究はほとんどなされてこなかった。つまり十川さんがファーストペンギンであり、今後もなお持続的発展のキーマンとなっていくことは間違いない。

    十川 陽香

    そがわ はるか○ 1997年生まれ。茨城県つくば市出身。
    2016年入学、生命環境系学部卒業後に進学するが、修士2年次だった2021年より林野庁に入職。
    3年間従事した後、2025年4月より再度研究室に戻った経歴を持つ。大学で始めた古武道で使用する木刀の価格高騰に疑問を持ったことがきっかけで、木製武具製造の持続的発展を視野に、経済学・社会学の両面から研究を続けている。

    森林資源や林業の課題に向き合い 
    林政学を幅広く研究する森林資源社会学研究室


    筑波大学は、地球規模課題解決と未来地球社会創造を目指す国内有数の先端的研究機関として名高い。中でも生命環境学(他大学では農学や生物学、森林学などにあたる)研究は多岐にわたっており、林業を経済学・社会学の両面から紐解いていく林政学は、かつて2つの研究室に4名の指導者が在籍するほどだったという。現在は国内全体で研究者が減少しており、筑波大学においても興梠准教授の森林資源社会学研究室のみとなってしまった。それでも2025年には10名が在籍し精力的に研究を続けており、自伐型林業経営がもたらす労働・雇用環境を含めた経済問題や、森林管理、木材の流通など、その研究内容は多くの学会誌をはじめ雑誌、書籍に収録・引用されている。
    ※研究室の名称は2026年度から「林政学研究室」に変更。


    現在は博士過程に在籍する十川さんが研究室に入ったのは、古武道がきっかけだった。大学入学と同時に古武道を始め「大学生活のほとんどが古武道の記憶しかありません」と語るほどにはまり込んだ。毎日木刀を握り、形を繰り返し自分に叩き込んでいく古武道中心のストイックな日々を送る中、「木刀ってなんでこんなに高くなっているんだろう?」と疑問を抱くようになった。「輸入品が中心の土産品で1,000円台、武具として用いられる国産の長刀で6,000円から7,000円が平均価格ですが、数年前から倍の価格に跳ね上がったんです。調べていくうちに、原材料不足が原因であることがわかりましたが、他にも何かあるのでは、と興味の範囲が広がったことから現在の研究に至ります」。

    古武道の稽古をする十川さん

    興梠研究室では学部4回生時に「興味分野の論文を読みまくる」という決まり事がある。世にある研究を知ることから、自身の研究テーマに造詣を深めていくという流れなのだが、この取り組みの中で、木製武具に関する研究がほとんどなかった状況が十川さんを研究へと駆り立てた。「いくつか研究テーマは考えていたのですが先生の後押しもあり終始一貫《木製武具》研究で進むことにしました。既存の研究資料が一切ないので、まずは産地で話を聞くことからスタートしました」。

    木刀の職人さんの仕事風景(十川さんが調査時に撮影)

    林政学

    林政とは、森林、林業に関わる政策のこと。森林、林業経営体や事業体および、木材産業、山村などを対象として、国・地方公共団体などが具体的に課題解決や状況改革実現を図るプロセスを言う。
    筑波大学の林政学は、狭義では森林と社会の関わりを研究する「森林政策学」を指し、広義には森林や山村に関わる社会科学(経済学/社会学/政治学/歴史学/行政学/法学など)をベースとした学問


    木刀生産の現状に直撃 
    社会課題に深く切り込む

    木刀の需要は「土産用」「武道用」に大別され、前者の産地は台湾や中国製と輸入品が多く軽量だが打ち合いには適さない品質だ。一方武道用には高い強度と重硬さが求められるため、国産の樫(カシ)の丸太材が材料として使われてきた。原板を乾燥させてから板材を削り成形していくため、必然的に端材が出てしまい、歩留まりは低い。

    国産木刀生産の9割を宮崎県都城市が占め、地域の伝統工芸品としての側面も持っている。都城市が産地として隆盛を誇ったのは、材料である樫材を多く産出していたことに起因している。その樫も戦後の政策によって杉に植え替えられたために、資源枯渇の危機に瀕している。

    また、課題は材料不足だけに留まらない。「職人の雇用環境問題です。後継者不足はもちろん、労働環境が整備されていなかったり、生産者同士の連携が取れていなかったりと、産業衰退要因が色濃く内包されていました」。さらに課題を販売者や購買者に周知させることなく生産者で抱え込んでいる現状も垣間見えた。「海外では工芸品としてだけでなく、合気道など日本武道愛好家が増加しているため、武具としての木刀需要は年々高まっています。木刀という日本文化の保存、発展のために取り組むべきことがまだまだあると考えています」。


    前人未到の木刀研究 
    国内産業と流通、課題解決を目指して

       前人未到の木刀研究、楽しかった点、苦労した点を教えてください。

    十川 陽香(以下 十川)  自分が興味を持てない分野だとなかなか動けないのですが、自分の疑問からスタートした研究だったので「まずは現地に行ってみよう!」と行動から入ることができました。通常であれば7月末の夏休みから研究に入るのですが私は3月から調査を始めました。考えるよりもまず行動!の精神で、すごく前のめりに(笑)。地元の方による学術論文を頼りに、まずは東京の販売店を訪ねて生産者の方ににつないでいただき、突き進んでいきました。
    苦労したのは数値的な根拠を示すことが難しかった点です。通常であれば生産者が集まって組合組織を構築し環境を維持保全していくものですが、木刀生産者の情報環境は閉ざされた状態と言えます。武道具全般の組合は存在しているものの、詳細な調査は行われていませんでした。研究では数値の把握は必須ですが「9割以上が都城で生産」という記述のみで、実際にそれを裏付ける数値的根拠がなく、この状態で研究を続けるべきか迷ったこともあります。
    論文では、前例がないという理由も加味して図表を多用しています。論文としてはかなり型破りな体裁でしたが、ゼロベースの研究だったためにこの方法が最適だと考えたんです。

       研究から見えた新たな課題とは?

    十川  一つの着地点は産業の持続発展です。現在、海外を中心に需要は高まっているのに担い手がいないために生産が追いついていません。担い手不足の要因としてあるのは経営手法と雇用環境が改善されていないことが大きいのではと感じています。高齢の職人さんが「生産は自分の代で終わるだろう」と諦めざるを得ない構造に陥っているのはとても残念なことです。

       産業の持続発展に向けて取り組むべきであると考えられることは?

    十川  まずは販売店と購入者に生産者の実態がもっと周知されるべきだと考えています。材料が高騰し、流通構造も変化していると同時に、生産者は休む間もなく、高速回転する機械の前で身体を傷つける恐怖と対峙しながら生産を続けている。実態が理解できれば適正な価値を価格に反映することができます。「職人気質」ではもはや維持できない状況になっていると私は思っています。

       今後のビジョンは?

    十川  一度国家公務員として従事しましたが、研究がやりたい一心で大学に戻ってきました。これからも最終的な目標である木製武道具製造の継続と発展のために尽力しながら、森林や林業、木材産業に関わる研究職として従事できたらと考えています。


    戦後の植林政策を取り戻す 
    広葉樹林活用の未来図

    十川さんの研究は、木刀という一点を起点とし、材料となる樫(カシ)──日本自生の広葉樹──の未来にも警鐘を鳴らすものだ。そしてその視線は、森林政策の在り方にまで及んでいる。

    樫は成長が早く、植栽にも適している。“どんぐりの木”として長年日本人の生活のすぐ近くにあった。前述の通り材質は固く重く粘り気があるため木刀だけでなく農具の柄や車軸、太鼓のバチなどに利用されてきた。しかし戦後、針葉樹中心の植林政策によって森林の生態バランスが崩れ、広葉樹林は保護対象となり、商用利用が難しくなってしまったのである。「以前はシラカシが最も多く利用されていたのですが、用材供給が減少し、価格が高騰しています。そのためアカカシやイチイガシへ変遷していますが、それらもいずれ枯渇するかもしれない。将来的には端材を使用したり輸入材に変更したりも考慮しなくてはならないかもしれません」。資源枯渇の脅威は、素材の質の低下を招くだけでなく、長期的には産業の衰退につながる可能性すらあるのだ。

    こうした現状を前に、十川さんは日本固有の伝統技術を守るためには、育林・流通・雇用・価格といったすべての要素を含めた「仕組み」の再構築が不可欠だと語る。
    「欧米ではすでに樫材の資源確保が進み、中国や台湾では加工技術が発展しています。木刀は単なる武道具ではなく、文化そのもの。弓や日本刀と同じように、古武道に欠かせない日本固有の伝統工芸品として、保存・発展し、後世へと伝えるべきものだと考えます」。なお今後の研究が待たれるところだが、一方では育林による技術開発の試みも始まっているそうだ。一本の木刀から始まった問いが、今、森林・伝統・地域をつなぐ大きな問いへと育ちつつある。そしてさらに、今後の日本伝統技術発展と、日本国土構築にどう関わっていくのか、期待は高まる一方だ。